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このページについて

石碑に刻まれた言葉や、地域で語り継がれてきた言い伝えには、 過去の災害を生き延びた人々の 教訓 が込められています。

このページでは、全国に残る災害伝承を 災害の年月日ごと にまとめました(全 24 件)。

こうした石碑やモニュメントのうち、過去に起きた洪水・土砂災害・高潮・地震・津波・火山災害などの 様子や被害が記されているものを 「自然災害伝承碑」 といいます。 国土地理院は2019年にこの地図記号を新しくつくり、現在は2万5千分1地形図と「地理院地図」に掲載しています。 地図上のアイコンを押すと、碑の写真や伝えている災害名、碑文の内容を見ることができます。 掲載されている碑は、全国の市区町村からの情報提供によって随時追加されています。

お住まいの地域にどのような碑があるかは、下記の地図で調べられます。 身近な場所にある碑を探してみてください。

869年5月26日

貞観地震

1件の伝承
  • 末の松山の大津波伝承

    末の松山の大津波伝承

    貞観地震
    貞観十一年、陸奥国を巨大な地震と津波が襲い、幾千もの村と人命が呑み込まれた。だが、多賀城のほど近くにある末の松山という小高い丘だけは、荒れ狂う波もついに越えることがなかった。二十年ほど後、都の歌人たちはこの言い伝えを、変わらぬ愛を誓う言葉として和歌に詠み込んだ。「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは」——末の松山を波が越えることがないように、この心も変わりはせぬ、という誓いである。そして千百四十二年の歳月を経た平成二十三年、東日本大震災の津波が再びこの地を襲った。周囲の市街地は二メートルもの浸水に見舞われたが、波は末の松山を避けるように左右に分かれ、丘を越えることは、この時もなかったという。

915年8月17日

十和田山大噴火

1件の伝承
  • 三湖伝説

    三湖伝説

    十和田山大噴火
    むかし鹿角の谷に、八郎太郎という名のマタギがいた。ある日、仲間との掟を破って岩魚を独り占めしたことから、耐えがたい渇きに襲われ、三十三夜も川の水を飲み続けるうちに、身の丈三十三尺もの龍と化してしまった。彼は十和田の山頂に湖を作り、その主となった。だが後年、熊野で法力を得た南祖坊という僧が現れ、経文の一字一字が剣と化す壮絶な法力で八郎太郎を打ち破り、湖を追われてしまう。行き場を失った龍は米代川を下り、里の老夫婦に迫り来る洪水を告げ、やがて秋田の地に新たな湖・八郎潟を作った。今日の研究では、この物語は延喜十五年の十和田山大噴火——過去二千年で日本最大級の噴火——によって米代川流域が土砂に呑まれた、その記憶を伝えるものと考えられている。

1657年3月2日

明暦の大火

1件の伝承
  • 振袖火事

    振袖火事

    明暦の大火
    明暦三年正月、江戸の本郷丸山にある本妙寺で、ある振袖の供養が営まれようとしていた。上野の商家の娘おきくは、恋煩いの末に十六歳で世を去り、家族は彼女が愛した振袖を柩にかけて弔った。その振袖はやがて古着屋に売られ、買い求めた娘もまた同じ十六歳で病に倒れて亡くなった。さらに次の娘も、また同じように命を落としたのである。因縁を恐れた遺族たちは、和尚に頼んでこの振袖を焚き上げ、清めることにした。和尚が読経しながら振袖を火に投じたその刹那、どこからともなく怪しい風が吹き荒れ、燃えさかる振袖は舞い上がって本堂の屋根に落ち、火を移してしまった。この炎はまたたく間に燃え広がり、江戸の大半と江戸城天守閣までも焼き尽くし、三万とも十万とも言われる命を奪う大火となったと伝えられている。※実際は、乾燥と強風という気象条件、そして当時の江戸の過密な木造家屋群という都市構造こそが真の原因であったとされている。

1707年11月23日

宝永大噴火

1件の伝承
  • 伊奈半左衛門忠順の伝承

    伊奈半左衛門忠順の伝承

    宝永大噴火
    宝永四年十一月、富士山が数十日にわたって噴煙と火山灰を吐き続け、須走をはじめ駿東・足柄の村々は厚い砂に埋もれてしまった。田畑は実らず、飢えに苦しむ民のもとへ駆けつけたのが、代官・伊奈半左衛門忠順であった。忠順は一月半にわたり被災地の隅々まで自ら足を運び、誰にでも気さくに声をかけて窮状を聞き、扶持米を配り、年貢を免じ、被災民を河川普請に雇い入れて賃金を与えた。時には被災者を自ら江戸へ連れて行き、勘定奉行に直談判までしたという。伝えによれば、忠順は御用米蔵を独断で開いて飢えた民に分け与え、その責めを一身に負って後に世を去ったとも語られる。真偽は定かでないが、村人たちは彼を「御厨の父」と慕い、小さな祠を建てて、その恩義を今に伝えている。

1828年12月18日

三条地震

1件の伝承
  • 瞽女口説地震の身の上

    瞽女口説地震の身の上

    三条地震
    文政十一年霜月、越後の国を凄まじい地震が襲った。三条の町は瞬く間に崩れ落ち、火が追い打ちをかけ、千を超える命が失われた。その惨状を目の当たりにした加茂の里正・斎藤真幸は、一年の後、筆を執った。だが彼が書き残したのは、ただの被害の記録ではなかった。災いに乗じて利をむさぼる役人、大工、僧侶、医者——人の弱みにつけこむ世の頽廃ぶりを、痛烈に諷刺したのである。この書に、江戸の戯作者・曲亭馬琴も筆を添えた。やがてこの物語は、盲目の旅の語り手である瞽女たちの口を通して、村から村へと語り継がれていった。地震の恐ろしさとともに、人の心の乱れをも後の世に伝える一編であった。

1854年12月24日

安政南海地震

1件の伝承
  • 稲むらの火

    稲むらの火

    安政南海地震
    安政元年十一月、紀伊国広村の夕暮れは、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。だが突然、大地が激しく揺れ動いた。庄屋の濱口儀兵衛は、揺れが去るや浜へと走った。見れば、潮が沖へ大きく引いていく。その異様な光景に、儀兵衛は津波の襲来を悟った。だが夜の闇の中では、村人に危険を伝える術がない。儀兵衛はとっさに松明をつかむと、刈り取ったばかりの稲むらへ次々と火を放った。赤々と燃え上がる炎に、高台の村人たちが「火事だ」と駆け上がってくる。その背後で、黒い波が村を呑み込んでいった。灯りに導かれた村人は、誰一人欠けることなく高台に立っていた。儀兵衛は後年、私財を投じて堤防を築き、村を守り続けた。この夜の出来事は、のちに世界津波の日の由来ともなっている。

1860年5月1日

万延元年(1860年)の土砂災害

1件の伝承
  • 念仏講まんじゅう(山川河内地区)

    念仏講まんじゅう(山川河内地区)

    万延元年(1860年)の土砂災害
    万延元年、長崎の山あいにある山川河内で、一夜のうちに恐ろしい出来事が起きた。降り続く雨に山が耐えきれず、猛烈な土石流が集落を襲い、三十三人の命を一瞬にして奪ったのである。生き残った村人たちは、亡き人々を弔うため、毎月十四日、家々をまわり持ちで饅頭を配る習わしを始めた。仏壇に供えられた饅頭は、家族で分け合われ、そのたびに子どもたちへとこの悲劇の記憶が語り継がれていった。それから百二十年余りが過ぎた昭和五十七年、再び集落を土石流が襲った(1982年7月23日長崎大水害)。だが村人は迷わず高台へと逃れ、家屋は流されても、命を落とした者は一人もいなかった。饅頭とともに語り継がれた記憶が、幾世代を経て人々を救ったのである。

1896年6月15日

明治三陸地震

1件の伝承
  • 津波てんでんこ

    津波てんでんこ

    明治三陸地震
    明治二十九年、三陸の海辺を津波が呑み込み、綾里のある一家では、生き残ったのはただ一人の祖母だけであった。半世紀近くを経て、その孫にあたる山下文男は、幼くして昭和の大津波にも遭い、身内九人を失った悲しみを胸に、津波の歴史を調べ続けた。平成二年、岩手県田老町で開かれた集まりで、山下は自らの家族の物語を静かに語った。その場に居合わせた研究者たちは、彼の言葉から一つの標語を生み出した——「津波てんでんこ」。てんでんばらばらに、我先にと逃げよ、という意味である。山下は語った。「情を断ち切り、心を鬼にして逃げねばならぬ。それでこそ、互いを信じて生き延びられるのだ」と。この一言は、幾世代を経て、多くの命を救う教えとなっている。

1914年1月12日

大正大噴火

1件の伝承
  • 桜島「科学不信の碑」

    桜島「科学不信の碑」

    大正大噴火
    大正三年一月、鹿児島の桜島では、連日のように地震が続き、井戸の水が濁っていた。不安を覚えた島民は、幾度となく測候所へ問い合わせた。だが返ってきたのは「桜島に噴火の心配なし」という言葉だった。村長もこれを信じ、島民に避難の必要はないと伝えた。そして一月十二日の朝、大地は轟音とともに割れ、火山灰と溶岩が島を覆った。逃げ遅れた三十五人が命を落とし、二十三人が行方知れずとなった。十年後、生き延びた島民たちは一枚の碑を建てた。そこにはこう刻まれている——理論に信頼を置き過ぎるな、異変を感じたならば直ちに避難の備えをせよ、と。後の世はこの碑を「科学不信の碑」と呼んだ。

1923年9月1日

関東大震災

3件の伝承
  • 本所被服廠跡の火災旋風

    本所被服廠跡の火災旋風

    関東大震災
    大正十二年九月一日正午前、関東一円を激しい地震が襲った。本所の街には次々と火の手が上がり、午後三時半頃には一帯が猛火に包まれた。逃げ場を失った人々、およそ四万人は、隅田川のほとりに広がる被服廠跡の空き地へと押し寄せた。建物のない広場ならば火は及ぶまい——そう信じて、人々は大八車に家財道具を山と積み、我が身と共に運び込んでいたのである。ところが夕刻、四方を囲む猛火が一体となり、轟音とともに巨大な火災旋風が巻き起こった。旋風は積まれた荷の上に火の粉をまき散らし、逃げ場のない群衆の頭上を炎が這った。この一夜、この一角だけで三万八千もの命が失われたという。空き地は、ただの空き地ではなかったのである。※「広い空き地に逃げれば安全」という判断そのものは誤りではなかったものの、命よりも家財を惜しんで大量の荷物を持ち込んだことが、猛火に囲まれた際の被害を大きく広げてしまった。
  • 根府川駅列車転落事故

    根府川駅列車転落事故

    関東大震災
    大正十二年九月一日の朝、東京から真鶴へ向かう第百九列車は、根府川駅のホームに滑り込もうとしていた。その瞬間、大地が激しく揺れ動いた。運転士はとっさに非常ブレーキをかけたが、間に合わなかった。地震によって崩れた駅の裏山が、巨大な土石流となって襲いかかり、駅舎もホームも、給水塔も、そして列車もろとも、四十五メートルの崖下の海へと押し流されてしまったのである。わずか数分の出来事であった。最後尾の客車二両だけが辛うじて岸に残り、それより前の車両は海中に没した。犠牲者は行方不明を含め百十二人にのぼったが、見つかった遺体はわずか五体に過ぎなかったという。
  • 東京都慰霊堂

    東京都慰霊堂

    関東大震災
    かつて被服廠跡と呼ばれたその場所には、大正十二年の震災で命を落とした、身元の知れぬ幾万もの人々の無念が眠っていた。震災から七年の後、昭和五年、この地に一つの堂が建てられた。設計を手がけた伊東忠太は、鉄筋コンクリートの骨組みに、神社仏閣を思わせる日本古来の姿をまとわせ、堂の内には中国やインド、遠く西洋の意匠までも織り込んだ。震災記念堂と名付けられたこの場所は、しかし静かな鎮魂の場では終わらなかった。二十年余りの後、東京を襲った空襲の犠牲者もまた、この堂に迎え入れられることとなったのである。名は東京都慰霊堂と改められ、震災と戦災、二つの大いなる悲しみを一つに抱く場所として、今日まで受け継がれておる。

1933年3月3日

昭和三陸地震

1件の伝承
  • 姉吉の大津波記念碑

    姉吉の大津波記念碑

    昭和三陸地震
    岩手県宮古市の山あいに、一枚の石碑が立っている。「此処より下に家を建てるな」——そう刻まれたこの碑は、昭和八年の津波で集落がほぼ全滅した後に建てられたものだった。明治二十九年の津波でも、生き残った者はわずか二人。二度の惨禍を経て、村人たちは碑の教えを固く守り、海に近い低地には二度と家を建てなかった。平成二十三年三月十一日、東日本大震災の津波が三陸の海岸を襲った。黒い波は容赦なく山腹を駆け上がり、ついに碑のわずか五十メートル手前で力尽きた。碑の教えを守り続けた集落には、一軒の家も流されなかった。先人が石に刻んだ一言が、八十年近い歳月を超えて子孫の命を守ったのである。

1958年9月20日

狩野川台風

1件の伝承
  • 狩野川放水路

    狩野川放水路

    狩野川台風
    昭和三十三年九月二十六日の夜、伊豆の天城山系に激しい雨が降り続いていた。上流の山肌はやがて耐えきれず、幾筋もの谷が崩れ落ち、土砂が川をせき止めて天然のダムをつくった。だがその堰は長くはもたなかった。轟音とともに崩れ落ちるや、堰き止められていた水が一気に狩野川へ押し寄せ、鉄砲水となって下流の町や村を襲った。逃げ場を失った人々が次々と濁流に呑まれ、流域だけで八百五十人を超える命が失われたのである。生き残った人々は、二度とこの惨禍を繰り返すまいと誓った。台風から七年後、山を二本のトンネルで貫く狩野川放水路が完成し、以来、狩野川の本流はただの一度も氾濫していない。

1959年9月26日

伊勢湾台風

1件の伝承
  • 伊勢湾台風殉難之塔

    伊勢湾台風殉難之塔

    伊勢湾台風
    昭和三十四年九月二十六日の夜、伊勢湾岸の干拓地には、海面よりも低い土地に多くの家々が並んでいた。台風の高潮は堤防をひとのみにし、海水は瞬く間に町を呑み込んだ。さらに恐ろしかったのは、名古屋港の貯木場から流れ出した無数の巨木だった。直径一メートル、重さ七、八トンもの木材の群れが波に乗って住宅地へなだれ込み、逃げ惑う人々を次々と押し潰していった。海部郡弥富町だけでも三百二十二人が命を落とした。泥の海に閉ざされた人々は、食べる物にも事欠く日々を八十日あまりも耐え忍んだ。全国から、また海の向こうからも届けられた支援への感謝を込め、村人たちは観音像を戴く塔を建て、この夜の記憶を後の世に語り継いでいる。

1982年7月23日

長崎大水害

1件の伝承
  • 眼鏡橋を守った市民の心意気

    眼鏡橋を守った市民の心意気

    長崎大水害
    昭和五十七年七月二十三日、長崎は一時間に187ミリという、今なお破られぬ記録的豪雨に見舞われた。市内を流れる中島川は氾濫し、江戸時代から架かる石橋群のうち六橋が流失、三橋が大破した。中でも寛永十一年築の眼鏡橋は、長崎の顔ともいえる存在であった。県は治水のため、橋を撤去し川を広げる案を検討し始めた。だが元技師の山口祐造の呼びかけで、大勢の市民が長い物差しを手に、街中六百八十か所もの浸水の跡を測って回った。その調査により、被害は中島川だけでなく、他の川や下水からの溢水も原因であったことが判明し、単純な拡幅では不十分と分かったのである。「命も文化財も大事だ」という市民の声が実を結び、橋は元の場所に残され、その両脇に地下のバイパス水路が新たに設けられることとなった。

1990年11月17日

雲仙・普賢岳噴火

1件の伝承
  • 雲仙普賢岳「定点」の悲劇

    雲仙普賢岳「定点」の悲劇

    雲仙・普賢岳噴火
    平成三年六月三日、長崎県の雲仙普賢岳を望む「定点」と呼ばれる場所に、報道関係者たちが取材のため詰めていた。そこは本来、避難勧告の及ぶ危険な区域であった。だが取材への熱意と、地元との間にできた警戒の申し合わせが、彼らをその場に留まらせていた。昼下がり、山肌に異変が生じる。次の瞬間、火砕流が斜面を猛烈な速さで駆け下りた。報道関係者とタクシー運転手二十人、消防団員十二人、警察官二人――取材を支え、彼らを見守っていた者たちが、炎の熱風に呑まれた。この日の出来事は、災害を伝えることの重さと、伝える者もまた守られねばならぬという教訓を、後の世に残している。

1995年1月17日

阪神・淡路大震災

1件の伝承
  • しあわせ運べるように

    しあわせ運べるように

    阪神・淡路大震災
    平成七年一月十七日、神戸を襲った大地震で、音楽教師の臼井真もまた、我が家を失った一人であった。瓦礫の中に立ち尽くすうち、言葉が体の奥底から自然と湧き上がってきたという。作ろうと考えて作ったのではない——そうして生まれたのが「しあわせ運べるように」という一曲であった。それまで神戸をことさら故郷と意識したこともなかった臼井は、街を失って初めて、その大切さに気づいたと語る。地震から一月半ほど後の二月二十七日、神戸市立吾妻小学校の児童たちがこの歌を歌った。歌はやがて全国へ、そして世界へと広がり、新潟や東北など後の被災地でも、地名を変えた替え歌として歌い継がれていった。令和三年、震災から二十六年の節目に、この歌は神戸市の歌に定められた。

2000年4月1日

有珠山噴火

1件の伝承
  • 有珠山、死者ゼロの備え

    有珠山、死者ゼロの備え

    有珠山噴火
    平成十二年三月、北海道の有珠山で火山性の小さな揺れが観測された。二十年前の噴火を知る住民たちは、すぐさま動いた。行政は避難勧告を待たずに避難所の準備を始め、気象庁が緊急火山情報を出したその日のうちに、住民への避難勧告が発せられた。日頃からハザードマップを見慣れ、火山の専門家と顔を合わせてきた住民たちに、迷いはなかった。三月三十一日、避難者はおよそ一万五千人に達した。その直後、山は激しく噴火した。だが、噴石も火山灰も、すでに無人となった集落を襲うばかりであった。死者も負傷者も、ただの一人も出なかった。二十年にわたる備えの積み重ねが、噴火という試練を静かに退けたのである。

2011年3月11日

東日本大震災

5件の伝承
  • 釜石の奇跡

    釜石の奇跡

    東日本大震災
    平成二十三年三月十一日、岩手県釜石市の学校では、いつもと変わらぬ午後が過ぎようとしていた。次の瞬間、激しい揺れが校舎を襲う。だが子どもたちは泣き叫ぶこともなく、すぐさま校庭へと駆け出した。日頃の訓練で、体が覚えていたのだ。「想定にとらわれるな」「その場で最善を尽くせ」「率先して逃げよ」。片田敏孝教授から学んだ教えのままに、小学生は中学生の姿を見て後を追い、まず五百メートル先の高台をめざした。だが一人の生徒が「ここも危ない」と声を上げる。誰もためらわず、さらに高い施設へと走った。校庭に集まった大人の指示を待たず、子どもたち自らが判断し、先へ先へと駆け続けた。約五百七十人の子どもたちは、ほぼ全員が無事にその日を生き延びた。
  • 奇跡の一本松

    奇跡の一本松

    東日本大震災
    岩手県陸前高田市には、三百五十年の歳月をかけて人の手で守り育てられてきた、七万本もの松の防潮林があった。平成二十三年三月、最大十七メートルという津波がこの松原を襲い、ほとんどの木をなぎ倒してしまった。だが、その中でただ一本だけ、倒れずに立ち続けた松があった。人々はこれを「奇跡の一本松」と呼び、瓦礫の中に立つその姿に、希望を見出したのである。塩水を吸った根はやがて枯れてしまったが、人々はこの松を手放さなかった。幹を分割して防腐処理を施し、内部に金属の心棒を通し、枝葉を複製に付け替えて、再びその姿を蘇らせた。今もこの一本松は、かつてと変わらぬ姿で、かの地に立ち続けておる。
  • 風の電話

    風の電話

    東日本大震災
    岩手県大槌町の丘に、電話線のつながらない一台の電話ボックスがある。庭師の佐々木格は、亡くなった従兄ともう一度語り合いたいという思いから、震災の前年、これを自らの庭に据えていた。翌年の東日本大震災で、佐々木は目の前の海岸が津波に呑まれるのを目にした。それから彼は、この電話ボックスを大切な人を失った人々にも開くことにした。受話器を耳に当てても、声は誰にも届かない。だが風に乗せて、亡き人へ想いを語りかけることはできる。訪れる人々はここで涙を流し、時に笑い、心にたまったものを吐き出していった。この静かな試みは、やがて日本各地へ、そして海を越えてアメリカにまで広がっていった。
  • 田老の防潮堤

    田老の防潮堤

    東日本大震災
    岩手県宮古市田老地区は、明治二十九年と昭和八年、二度にわたって大津波に町ごと呑み込まれてきた。この痛苦の記憶から、人々は昭和九年から実に四十年余りをかけて、高さ十メートル、総延長二千四百三十三メートルにも及ぶ二重の防潮堤を築き上げた。それはいつしか「万里の長城」と呼ばれ、日本一の防災の砦として知られるようになっていたのである。しかし平成二十三年、東日本大震災の津波は、この巨大な壁をも易々と乗り越えてしまった。第一線の堤防は倒壊し、町は再び甚大な被害を受けた。備えは尽くした、それでもなお及ばぬことがある——田老の防潮堤は、その重い現実を今に伝えておる。
  • 大川小学校

    大川小学校

    東日本大震災
    宮城県石巻市を流れる北上川のほとり、大川小学校では、地震発生からおよそ五十分もの間、児童たちが校庭に集められたまま待たされていた。校長が不在で指揮系統が定まらぬ中、教職員たちは、間近にある裏山へ逃げるべきか、より遠い堤防の高台へ向かうべきか、議論を続けていたのである。降り積もる雪で足場が悪く、余震による土砂崩れも案じられ、決断は先延ばしにされた。津波が北上川を遡って学校を襲ったのは、地震から約五十分後のことであった。在校していた児童百八人のうち七十四人、教職員十一人のうち十人が、この地で命を落とした。この出来事は、いざという時に誰が何を決めるのか、日頃から定めておくことの重さを、今も私たちに問い続けておる。